事務局のお手伝いをさせていただいている、学生会員の永谷です。
だいぶ間があいてしまいましたが、今回と次回で、シンポジウムで語られたエピソードについて、私がとったノートをもとに、少しご紹介いたします。
第一部は、「私からみたイサム・ノグチ」ということで、生前のイサムさんとともに時間を過ごした方々の思い出の数々が語られました。コーディネーターは建築家・川村純一さんです。
まず、お話されたのが、写真家・篠山紀信さん。
イサムさんが亡くなる半年前に、イサム・ノグチ庭園美術館の写真図録の撮影に行った時のエピソードをお話してくださいました。写真の順序について議論したり、撮影時構図を決めるとき、「ここ、空間が空いているね。ぼく、立とうか?何か作品を持ってこようか」と提案したり、たくさんの共同作業のもとに図録写真がかたちづくられていったそうです。イサムさんが亡くなってから撮影に行ったときにも、まるでイサムさんがそこに居るかのように感じられたそうです。
次にお話しくださったのが、彫刻家・広井力さん。
最初にイサムさんの論文『ART AND SOCIETY』での「芸術家はその能力を以て社会貢献しなければならない」という言葉をご紹介され、イサムさんに師事していたころの様々なエピソードについて、楽しく語ってくださいました。その中で一つ印象的だったエピソードをご紹介します。ル・コルビュジェのモデュロールでスケールをとると、美しいかたちができるという話が出たとき、イサムさんは「ぼくの定規はこの中にあります」と胸に手を添えられたそうです。このエピソードを聞いて、イサムさんは自分の心で感じるものを信じていらっしゃるのだろうと思いました。石の塊からあのうつくしい形を彫りだすときにも、ゴミ埋め立て地だったモエレ沼を訪れ「ここにはフォルムが必要」とおっしゃった時にも、自分の心で感じたことを信じていたからこそ、それを信じ手を動かしたからこそ、あのうつくしいかたちが生まれたのではないかな、と感じました。
洋画家の堂本尚郎さんは、半世紀前のパリでのイサムさんとの出会い…パリのど真ん中のユネスコ本部に日本庭園を作ろうという企画を進めていたころのお話をしてくださいました。「日本で会うと青い目に、アメリカやフランスで会うと黒い目に見えた」というエピソードを通し、イサムさんの持つ両面性、それゆえの苦しみについて語られました。ここで私がひときわ気に入ってしまった名言(?)が紹介されています。それが、「ぼく、きもちに入りました」。「大変気に入った」ということをそのように言い表されたのだそうです。この言葉、とってもきもちに入りました!!
また、彫刻家の安田侃さんは、彫刻家ヘンリー・ムーアに紹介されたイタリアの大理石産地、ピエトラ・サンタへ行ったときに、イサムさんと偶然会い、そのお手伝いをしたエピソードを紹介されました。また、イサム・ノグチはランドスケープと彫刻の融合を目指した挑戦者であるということもおっしゃっていました。個人的に、「きもちに入った」エピソードとしては、イサムさんが自分の未完成の作品に対し、「ほら、あの石、迷いがいっぱいつまっているじゃない。いいねえ」というようなことをおっしゃったということ。私は、自分が過去に取り組んだこと見返すとき、「こういうところも、ああいうところも、できていない。足りない。」と思っていました。でも、それで終わりではないんですよね。足りないところ、できていないところ、悔しかったところ、もっと考えたかったところ、そういう悩みや迷いがいっぱいつまったそれは、そこで終わるのではない。「失敗」ではなく「未完成」。もし、とても満足のいくもの・ことができたとしても、それもやっぱり、そこで終わりではないのかもしれない。モエレ沼公園が、イサムさんが亡くなった後も、長い時間をかけて、すこしずつかたちづくられていったように。私たちモエレ・ファン・クラブが、モエレ沼公園のすばらしさをどうやったら多くの人に伝えられるか、どうやったらもっと活用できるのか、悩み、迷いながら、長い時間をかけてモエレ沼公園とともに歩んでいくことも。素人ながら、そんなふうに、思いました。
建築家の磯崎新さんは、サンフランシスコ地震で損壊した、スタンフォード大学の再建の際、イサム・ノグチの広島原爆慰霊碑を学内に作ろうと提案をしたことを話してくださいました。この慰霊碑は、イサム・ノグチがアメリカ人という国籍を持っているため拒否されたもので、代わりに慰霊碑の設計を依頼された建築家丹下健三は、イサム・ノグチのデザインをベースにしたものを設計したといいます。また、他にもイサムさんがベニスのビエンナーレについて、「これは国と国の戦いではないね。コラボレーションだね。すばらしい」とおっしゃっていたエピソードを紹介されました。二つの国の間で絶えず揺れ動いたイサム・ノグチという人物の一面がうかがえるエピソードでした。
また、最後に現在私の教科書(笑)になっている、『イサム・ノグチー宿命の越境者』の著者、ドウス昌代さんが、41年前にニューヨークでレッド・キューブに出会ってから、本を書くに至ったお話をしてくださいました。また、イサムさんの「ぼくには生まれたときからfamilyというものがなかった」という言葉の紹介にはじまり、日本とアメリカの、また彫刻という美術の分野の、イサム・ノグチはまさしく「越境者」であると感じられたことが、エピソードとして語られました。
このように、第一部では、イサム・ノグチという人が、どのような人であったか、プライベートから仕事に対する取り組み、彼が生涯抱えた二つの国の面影に至るまで、幅広いお話をうかがうことができました。
第二部では、「イサム・ノグチに学ぶ」というテーマのもと、現在活躍中のデザイナーやアーティストの方々が様々なお話をしてくださいます。
第二部については、vol.3でアップしたいと思います。
少々お待ちくださいね!
(学生会員 永谷)
また公園の活用や運営管理等に市民が自発的に加わり、様々な活動に取組む事によって、市民と行政の新しい協働と協創のまちづくりのモデルケースとなる事を念願し組織された任意団体です。
03 | 2025/04 | 05 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | ||
6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 |
13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 |
20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 |
27 | 28 | 29 | 30 |